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場 所
大 宮
〒533-0012
大阪市東淀川区大道南3-2-2
電話: 06-6328-7104
FAX: 06-6328-5793



由緒と沿革

1.ご祭神

 主祭神
    第二十七代 安閑天皇(あんかんてんのう)
 相 殿
    天手力男命(あめのたぢからおのみこと)
    大己貴命(おおなむちのみこと)


2.起源

 安閑天皇は、しばしばこの地に行幸あそばされ、即位の二年秋、勅して牛を放牧せしめられ、土地の発展を計らしめ給うた。
 後に、御徳を慕い祭祀奉ったが、その年代は詳かでない。


3.聖徳太子の伝承

 聖徳太子は、当初この地に四天王寺を建立しようとされたが、淀川氾濫による洪水が多かった為、現在の場所に変更された。
 この事から、明治初期まで「天王寺庄」の地名が残されていた。
 地名の他にも、太子に纏わる多くの伝承と共に、聖徳太子社として境内にお祀りされている。


4.移転前の立地

移転前の当宮(正面から)

移転前の当宮(正面から)

移転前の当宮(背面から)

移転前の当宮(背面から)

 明治時代の大規模な淀川改良工事までは、旧淀川北岸の堤に面していた。
 境内は、千年に余る楠・杉・松の大樹数本、二丁余りの竹藪と共に、千古を語る鬱蒼とした森であった。徳川末期には、京都東本願寺の棟木を献上したと伝わっている。
 当時、淀川を京に向け逆上る船は、この森を目標にして西風を帆一ぱいにはらませ逆航し、当宮の正面に致って帆を一担おろし、舵を北に取って帆を逆に巻き揚げ北進し、辻堂の浜にかかって舵を東に帆を元にもどして、江口・鳥飼へと東進し、川を逆上って行ったと言われている。
 徳川時代の三十石船からも、この森が燈台の役をして大宮大明神、大宮大権現と親しみ、あがめられていた。(古地図に逆巻の地名が見られる)


5.淀川改修と移転

明治十八年頃の当宮附近図(淀川改修前)

明治十八年頃の当宮附近図(淀川改修前)

昭和二十五年頃の当宮附近図(淀川改修後)

昭和二十五年頃の当宮附近図(淀川改修後)

 明治三十三年五月、淀川改修工事施工にあたり、境内は新淀川の河川敷となった為、老樹・竹藪を伐採して現在地に遷座した。
 と同時に、氏地の中央に新淀川が掘替され、本流の曲りはゆるやかになり、川幅も広くなって、逆巻の難所も洪水のおそれもなくなったが、豊饒の耕地は河川敷となって埋没し氏地の大半は川底に沈んで、氏子の人々は南岸と北岸にそれぞれ住み別れ、氏地は真二つに分断された。
 従って、大正十四年に大阪市に編入された時、南岸となった地域も北岸と同じ東淀川区であった。
 後、昭和十七年、南岸は、旭区となったが、町名区画は旧来のまま橋寺町・豊里町・豊里三番町と変らなかった。
 だが、昭和四十六年旭区の町名区画が変更され、太子橋・大宮・中宮・生江の北部に連なることとなり、氏地の境は不鮮明となった。


6.近年

現在の拝殿正面写真

現在の拝殿正面写真

 昭和四十五年、平田の渡し舟に代って豊里大橋が完成すると、大阪内環状線(国道479号線)の大動脈が当宮正面の鳥居前を走り、周辺は見る見るうちに都市化・宅地化した。
 さらに、平成十八年には、大阪市営地下鉄今里筋線が開通する事により、ますます交通の利便が増し、いよいよこの土地の発展は止まる所を知らない。